人文館 1階

人文館 1階

 旧石器・縄文・弥生・古墳時代、古代を経て中世の三浦一族が栄えたころまでの歴史を紹介しています。
おもに三浦半島から出土した土器や骨角器・埴輪などを展示しています。
三浦半島の海辺での生活を再現したジオラマや古墳時代の住居の模型などからは昔の人々のくらしぶりを想像することができます。

詳細一覧

三浦半島をつくる地層

約10万年前以降、三浦半島では箱根などの火山から噴出した火山灰が降り積もり、関東ローム層となりました。
このコーナーでは三浦半島南部で作成した、高さ8mの関東ローム層のはぎ取り標本を展示しています。

縄文時代の丸木舟

横須賀市久里浜9丁目伝福寺裏遺跡(でんぷくじうらいせき)から出土した縄文時代前期末葉~中期初頭頃の丸木舟です。ムクノキ製で、現存長304.0㎝と国内最小クラスです。その規模から、沿岸での漁撈活動(ぎょろうかつどう)に使われていたものと考えられています。
 また、同遺跡には東北南部から畿内地方までにおよぶ広範囲の土器が運び込まれていることが確認されています。

三浦半島にヒトが住み着いたころ

三浦半島に人が住み始めたのは土器の出現より10,000 年以上も前の、26,000 年前頃と考えられています。
しかし、旧石器時代の遺跡数は少ないことから、その後もあまり人口は増加しなかったようです。
このコーナーでは、各遺跡から出土した石器のほか、地層や自然環境の変化などを含めたパネルを展示しています。

採集の時代Ⅰ

縄文時代早期の三浦半島は自然環境に恵まれた地域であったらしく、全国屈指の遺跡密度を誇ります。特に貝塚は多く、海からの恵みが豊かな暮らしを
支えていたことがうかがえます。
しかし、温暖化にともない海水面の上昇がピークを迎える前期には遺跡数が激減することから、生活環境は大きく変化したことがわかります。
このコーナーでは、早期の豊富な土器・石器・骨角器( こっかくき) 類を展示するとともに、縄文土器に直接触ることができる体験コーナーもあります。

採集の時代Ⅱ

東日本では、沿岸部・内陸部にかかわらず中期になると遺跡の規模・数ともに爆発的に増加し最盛期を迎えます。三浦半島ではこの時期、東北南部から近畿地方におよぶ広範囲の地域から土器が運び込まれるなど活発な交流があったことが知られています。しかし爆発的な人口増加は認められず、後期以降急速に遺跡数は減り、晩期にはほとんど人は暮らしていなかったようです。

このコーナーでは各期の土器のほか、漁撈道具(ぎょろうどうぐ)である土器片錘(どきへんすい)や貝刃(かいじん)、貝・牙などで作られた装身具などを展示しています。

海の生活

伝福寺裏遺跡(でんぷくじうらいせき)出土の骨角器(こっかくき)や魚骨・貝などをもとに、縄文時代中期初頭(約5,000年前)の磯での漁撈活動を再現したジオラマです。当時のひとびとは裸ではありませんが、正確な服装が不明なためあえて着せていません。

農耕のはじまり

三浦半島に弥生文化が伝えられたのは中期中葉頃で、集落を形成し本格的に稲作が開始されるのは中期後葉頃のようです。後期には遺跡数も爆発的に増加しますが、終末期には東海以西の古墳時代の土器が運び込まれています。これは、三浦半島が弥生時代の終末期であったころ、東海以西ではすでに古墳時代となっていたことを意味しています。

このコーナーでは、土器・石器・炭化米のほか、当時の拠点的集落のひとつであった鴨居上の台遺跡(かもいうえのだいいせき)の立体地模型や集落の変遷図なども展示しています。

豪族の誕生

前期(3~4世紀)・中期(5世紀)には東海以西の、後期以降(6~7世紀)は埼玉県・群馬県など関東地方内陸部の土器が海浜部の遺跡から多量に出土するようになります。これは、三浦半島が古墳時代をとおして海上交通の要衝である港として使われていたことを示しています。

また、三浦半島では土を高く盛り上げた古墳は少なく、崖に穴を掘り墓とした横穴墓(おうけつぼ)が多数みられますが、古墳には埼玉県や群馬県の埴輪(はにわ)が立てられたり、副葬品(ふくそうひん)に東海地方の土器がみられるなど、各地との交流の深さがわかります。

このコーナーでは、弾琴男子椅座像など古墳に立てられた埴輪や、装身具・武器・土器などの副葬品を展示しています。また、土師器(はじき)・須恵器(すえき)など古墳時代の土器に直接触ることができる体験コーナーもあります。

都と三浦半島

奈良・平安時代には、三浦半島にも律令体制(りつりょうたいせい)がしかれました。御浦郡(みうらぐん)とよばれた役所には、御浦郡司代大田部直圀成(みうらぐんじだいおおたべのあたいくになり)という役人もいました。寺院や役所には都と同じ屋根瓦が使われましたが、庶民は茅葺(かやぶき)の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)で暮らしていました。

また、8世紀後半までは三浦半島に東海道が置かれていたので、当時は対岸の上総(かずさ)には船で渡っていたようです。この道を通って三浦半島の人たちは、都を警備する衛士(えじ)や九州で防人(さきもり)となるため出かけてゆきました。

このコーナーでは、市内で焼かれた土器や県内最古級の古代寺院瓦、網の重りである土錘(どすい)・石錘(せきすい)などのほか、占いに使われた卜骨(ぼっこつ)なども展示しています。

三浦一族と三浦半島

 鎌倉時代に活躍した三浦一族は、11~12世紀には三浦半島や相模国内[現神奈川県域]だけでなく、一部の人たちは白河院(しらかわいん)の側近となって京都でも活躍しました。
 鎌倉に幕府(ばくふ)を開いた将軍源頼朝(みなもとのよりとも)のもとでは重要な地位につきましたが、宝治(ほうじ)の乱で三浦介(みうらのすけ)を名乗った家系が滅び、佐原家(さわらけ)のみが残りました。南北朝・室町期になると再び政治の足跡を残しましたが、関東地方では15世紀以後戦乱が続き、三浦一族も三浦半島を中心に所領を守るのみでした。戦国時代になると、後北条氏(ごほうじょうし)のもとで新たな時代が開けてきました。
 このコーナーでは、三浦一族と深い関わりをもつ大矢部磨崖仏(まがいぶつ)のレプリカや、岩戸満願寺の瓦・坂口やぐらの四耳壺などのほか、衣笠城の立体模型を展示しています。さらに、古代と中世の瓦を触って比べられる体験コーナーもあります。