学芸員自然と歴史のたより「異国人、久里浜来航!」

2019.08.29

 今年7月、大王(おおきみ)の墳墓群と考えられている大阪府の古市・百舌鳥(もず)古墳群が世界文化遺産に登録されました。今回はまさに、この日本の中心地と関東地方とが海路で強く結ばれた1,500年ほど前の出来事です。当然アメリカ合衆国は建国されていませんから、異国人はアメリカ人ではありません。それでは、皆さんが良くご存じのペリー提督よりはるか昔、久里浜に上陸していた異国人は誰だったのでしょうか。

百舌鳥大山古墳

 

 5世紀後半頃、大王の近くに仕えていた豪族の一部が、鉄器生産などの技術者を連れて地方に入植していったようです。そのひとつが、5世紀末に突如築造された埼玉県行田市の埼玉(さきたま)稲荷山古墳の被葬者をリーダーとする集団であったと考えられます。この古墳には、「‥獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮‥(‥わかたけるのおおきみしきのみやにいましとき‥)」[※読み方には諸説あります]などの文字が金象嵌(きんぞうがん)された鉄剣とともに、鉄器製作の象徴として鍛冶職人が使う鉗(かなばさみ)が副葬されていました。

 この時期以降三浦半島では、埼玉県や群馬県といった内陸部で製作された土器類が砂浜から多量に出土するようになります。また、焚き火跡なども確認されることから、これら海浜部の遺跡は海路の中継地として風避けや波待ち、あるいは食糧補給などの目的で一時的に停泊する港として利用されていたようです。これらのことから、内陸部の人々は鉄器素材などさまざまな物資を畿内(きない)から迅速かつ多量に入手するため、埼玉県は荒川、群馬県は利根川を利用し、東京湾⇔三浦半島⇔相模湾⇔‥‥⇔紀伊半島を結ぶ海(水)上輸送を積極的に活用するようになったと考えられます。

内陸から運ばれてきた土器群(浦郷町なたぎり遺跡)

 

 このようななかで約1,500年前の久里浜では、埼玉系埴輪の八幡神社4号墳と群馬系埴輪を伴う蓼原古墳が砂堆(さたい)上に築造されます。三浦半島で最も重要な中継地であったと考えられることから、これら古墳の被葬者はそれぞれの地から派遣され、出身地から来航する舟の世話をするため港に駐在する集団のリーダーであった可能性が高いのです。

佐原から久里浜を望む

 

群馬県の工人が作った埴輪(神明町蓼原古墳)

 

 以上のようにみてくると、1,500年前の久里浜には関東地方内陸部の人たちが頻繁に来航していたことになります。ただし、埼玉県や群馬県は現代の地名です。古代にまでさかのぼると、埼玉県は牟佐之国(むさしのくに)の一部であり、群馬県は上毛野国(かみつけぬのくに)ということになります。三浦半島は相武国(さがむのくに)に属しますから、1,500年前に久里浜に来航していたのは、100~130kmほど北方の異なる国の人たちということになるでしょう。(考古学担当:稲村)

 

 

 

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