学芸員自然と歴史のたより「たね屋さんからみた、三浦半島の農業」

2019.09.29

 三浦半島の農家さんはたいへん勉強家で、しかも熱心な働き者です。本館では、そういった三浦半島の農家さんや農業を、文系・理系の枠を超えて紹介してゆきたいと考えています。

 農業を研究対象としてみたとき、生物種としての農作物(生物学)、品種改良と栽培方法(農学/人類学)、地域の環境と農地(気象学/地質学/土壌学)、遺跡から発掘される農業遺構・農機具・農作物遺体(考古学)、地域の農業と個々の農家の歴史(歴史学/古文書学)、それぞれの時代の農家同士の結びつきと祭祀(人類学/社会学)などといった、文系と理系の枠をとりはらった複合的な視点が必要となってきます。

 日本のおおくの農家さんは、現在、個人で種子を継代保存するのではなく、種苗会社(たね屋さん)から種苗を購入して農作物を育てています。したがってたね屋さんは、農作物の消費者さんのニーズを念頭に置き、農家さんと相談しながら農作物を一緒に選んでゆくコンサルタントともいえる、重要な仕事です。そこで三浦半島の農業を知るために、今回、たね屋さんを核にネットワークとしてご紹介することを思いつきました。

 1967年、国の方針にしたがって、肥料としてのヒトのし尿が使用禁止となりました。三浦半島では、くわえて、し尿肥料の元になる牛馬数も減少したため、このあたりから施肥がおおきく変化しました。こういった流れの中で、それまでの農業形態も変化し、1970年あたりから、春キャベツ―スイカ―ダイコンという野菜3毛作が確立しました。この3毛作が、現在の三浦半島農業の主流になっています。

 三浦といえば、三浦ダイコンが有名です。三浦ダイコンは、三浦半島を代表する農作物といっていいでしょう。三浦半島のダイコンは、三浦市高円坊のものが、すでに江戸末期には知られていました。当時のダイコンは、カブに似た丸い形のもので「鼠大根」と呼ばれていたようです。明治38年(1905年)、鈴木寿一氏によって練馬ダイコンの種子が導入され、地元のダイコンとの交雑・改良がおこなわれ、「中ぶくら」の、今日の三浦ダイコンの形態の基礎ができました。さらに、大正14年(1925年)、岸亀蔵氏によって、三浦産のダイコンを「三浦ダイコン」と命名し、ポスターやのぼりで大々的に宣伝しました。このように受けつがれてきた三浦ダイコンですが、昭和54年(1979年)10月19日、台風20号で幼苗が打撃を受け、壊滅状態になってしまいました。このとき、急場しのぎとして青首ダイコンが植えなおされ出荷されました。ところが、青首ダイコンにはいくつかの利点があったため、数年で三浦半島のダイコンの主流となってしまいました。三浦ダイコンの作付は、0.5 %にまで落ち込んでいます。

 現在、三浦半島の農業は変革期を迎えており、たいへん興味深い変化が起こっています。農家さんが創る、新しい三浦の名産品にぜひご注目いただきたいと考えています。(植物学担当:等々力)

 

ミヤサカのタネ

三浦ダイコン

 

 

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