学芸員自然と歴史のたより「旗本の2つの顔 -官僚としての旗本、領主としての旗本-」
当館2階人文展示室の入口には、横須賀製鉄所の建設に尽力し、日本の近代化に多大な影響を与えた旗本小栗上野介忠順(1827~1868)の胸像が展示されています。「旗本」とは、徳川将軍家に直接仕える幕臣であり、禄高1万石未満で、将軍に謁見できる御目見以上の者のことをいいます。一方、同じく直参でも将軍に御目見できない者を「御家人」といいました。旗本の数について、俗に「旗本八万騎」といわれますが、実際の数は約5000家余りでした。そして、小栗上野介のような上位の旗本は、「知行取」といって、主に関東地域に領地となる村を宛がわれ、その村から納められる年貢の一部が俸禄となっていました(幕府の御蔵からお米を支給される者を「蔵米取」といいます)。
ですので、「旗本」とは、幕政運営に必要な業務を担う、いわゆる「官僚」であると同時に、村々を支配する「領主」(殿様)でもありました。例えば、小栗上野介の場合にも、江戸に居住して、「勘定奉行」などの幕府役職を歴任する一方で、下野国足利郡(現栃木県)、上野国群馬郡・緑野郡(現群馬県)、上野国武射郡・香取郡(現千葉県)のうちに領地である村々を支配していました。小栗上野介が最期に土着した上野国群馬郡権田村(現群馬県高崎市倉渕町権田)も領地の一つです。なお、旗本の領地は「知行所」といい、各村の運営はそれぞれの「名主」に委任しておりました。また、同じ領主を持つ村々全体を統括する名主を「割元名主」といいます(地域により呼称の違いはあります)。このように関東地域には、旗本の知行所がたくさん配置されたので、必ずしも1人の領主が1つの村(おおむね現在の大字の範囲)を支配するのではなく、複数の領主が分割して1つの村を支配している「相給村落」が多くありました。三浦半島の場合には、多くてもせいぜい領主3人(「三給」と数えます)ほどの相給村落ですが、関東の他地域では10人以上の領主が1つの村を分割して支配している場合も珍しくありませんでした。こうした関東地域における支配の細分化が、領主の別無く治安の維持や犯罪の取り締まり等を行った「関東取締出役(八州廻り)」(文化5年(1805)設置)や、その活動を補佐する「改革組合村(寄場組合)」(文政10年(1827)編成)の成立、展開へとつながっていきます。しかしながら、三浦半島の場合は海防の関係もあり、他の関東地域とはやや異なる地域編成が行われました。
さて、こうして考えてみると、日本の外交史や現横須賀市域の歴史を考える上で重要な役割を果たした、「新見正興」(万延元年遣米使節の正使)や「村垣範正」(同副使)、「柴田剛中」(横須賀製鉄所の機械用具の買い付け交渉など担当)、浦賀奉行所の長官である歴代「浦賀奉行」等もすべて「旗本」です。
彼ら「旗本」の存在を正しく理解するには、単なる地域や個人を顕彰するための英雄偉人譚としてだけでなく、旗本の「官僚」としての側面、「領主」としての側面を実証的に検討し、その上で江戸時代の社会や制度、ひいては明治期以降の社会の中に位置づけていくという地道な作業が求められるでしょう。ところが肝心の旗本家の史料は、明治維新以後の社会変動や、東京における震災や戦災等の影響もあり、極めて乏しいのが現状です。今後さらなる史料が発掘されることを切に願う、今日この頃です。(文献史学担当:藤井)
小栗像(当館2階で展示中)
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