三浦半島の農業と三浦ダイコンの変遷【学芸員自然と歴史のたより】

2020.12.26
 農業を研究対象としてみたとき、文系と理系の枠をとりはらった複合的な視野が必要です。総合博物館としての当館は、今後とも積極的に取り組みたい分野です。  三浦半島の農業は、明治期以降、さまざまな試行を繰り返しながら発展してきました。それらの商品作物の代表として、三浦ダイコンをあげることができるでしょう。三浦ダイコン(図 1)の特徴は、根の中央が膨れている「中ぶくら」とよばれる形態です。  

図 1. 三浦ダイコン

   2018年現在での三浦半島の代表的農作物は、ダイコン(青首ダイコン)、早春キャベツ(収獲1-3月)、春キャベツ(収獲4-5月)、スイカ 、メロンがあげられます。1980年あたりからは、カボチャの栽培も盛んになってきました。この中で、三浦半島のダイコンの生産量は全国トップクラスです。しかし、そこに三浦ダイコンのしめる比率は、現在では0.5 %にまで落ち込んでいます。  三浦半島のダイコンは、三浦市高円坊のものが、優良品としてすでに江戸末期には知られていました。当時のダイコンは、根が鼠のしっぽに似た「鼠大根」と呼ばれるもので、現在の三浦ダイコンとは異なるものでした。  この後、明治38年(1905年)に鈴木寿一氏によって練馬ダイコンの種子が導入され、高円坊や小原といった地元のダイコンとの交雑・改良がおこなわれ、三浦ダイコンの形態の基礎ができてゆきました。大正14年(1925年)になると、岸亀蔵氏によって三浦産のダイコンは「三浦ダイコン」と命名され、ポスターやのぼりで大々的に宣伝。ブランドとして確立されてゆきました。  戦前より、ダイコンのできは畑への屎尿(しにょう)の量によるとされ、三浦半島の畑には大量の屎尿が投下されました。最初は横須賀まで農家さん自身が出向いて集めていましたが、戦後は横浜市の屎尿が運搬船によって三浦市まで運ばれるようになりました。現在の三浦半島の畑がよいのは、このときの屎尿の大量投与の影響であるといわれています。  1967年になると屎尿の使用禁止と牛馬数の減少で、農業形態が変化しました。これによって、現在みられるような春キャベツ―スイカ―ダイコンという野菜三毛作(図 2)が確立したのです。一方で、「オンバイモ」と呼ばれたジャガイモは、数を減らしました。  

図 2. 野菜三毛作

   1979年10月19日、台風20号は三浦ダイコンを壊滅状態におとしいれました。代用として、関西を中心に栽培され、三浦ではほとんど見向きもされなかった青首ダイコンが、急遽まきなおされました。代用の青首ダイコンは無事に育って、出荷することができました。このとき農家さんは、収量が多く、労働の手間も少なく、高度成長期の社会のニーズにもマッチしていた青首ダイコンに一気に注目したのです。そして数年後には、三浦半島のダイコンの主流となって、現在にいたります(図 3)。  

図 3. 三浦市におけるダイコンの作付け面積の推移

   三浦ダイコンは辛みが強く、緻密で煮崩れしにくい特性をもっています。正月のなますの他、横須賀では餅にかける大根おろしやふろふき大根などとしても、一般的に用いられてきました。現在、三浦ダイコンの優れた特性を生かした新しい利用方法がさまざまに模索されているところです。(植物学担当:等々力)     「学芸員自然と歴史のたより」はメールマガジンでも配信しています。