漂着した武士の遺体【学芸員自然と歴史のたより】

2021.04.03

 本号では、新政府軍と旧幕府軍の戦いである戊辰戦争(1868-1869)が終結した頃、三浦半島に漂着したとある遺体をめぐる出来事について紹介します。

 明治2年(1869)5月20日、鴨居村(現横須賀市鴨居)の百姓佐七(57歳)が藻草(もぐさ)を刈るため村内の観音崎浜を通りがかったところ、岩陰に武士の身なりをした溺死体(「侍体(てい)之(の)溺死骸」)を発見しました。村役人立会のもと当日のうちに遺体の検使が行われ、翌21日には、発見者である佐七と鴨居村の村役人によって浦賀役所(旧浦賀奉行所、当時は神奈川県の出張所)へと遺体の漂着が知らされることとなります。その際、佐七らから浦賀役所へ提出された文書には、漂着した遺体の状態や着衣、所持品の詳細が記されています。こうした記録によると、流れ着いた遺体は「波ニ柔(揉)揚られ数日相立候義ニも可有之、観音崎浜岩陰ニ肉脱髑髏(どくろ)ニ而(て)手足も散乱侵(浸)晒相成居候」と数日間波に晒(さら)されていたことで大変無惨な有様となっていました。また、衣類は絹で仕立てられた胴服と袴、「白襦袢」(和服用の下着)、「霜降博多帯」(霜降り柄の博多帯)、腰に西洋風の「胴乱」(薬・印・銭・煙草などを入れて腰に下げる革製の袋)を結び付けていたそうです。そして、その「胴乱」のなかには金29両余の大金と印鑑・眼鏡・ビン・磁石がそれぞれ1つずつ、着ていた服の袂(たもと)にあった「西洋巾着」にも金銭が入っていたようです。さらに、漂着した遺体の側には「越前国住包則」と銘の入った刀1腰が落ちていたとあります。こうした報告を受けた浦賀役所では、事件の可能性は低いと判断し、鴨居村の寺院へ仮に埋葬すること(「仮埋」)を指示し、所持金は鴨居村に預け置かれました。そして、「年齢・格好・死体之様子」を記した建札を往還端に設置し、6ヶ月の間、尋ね来るものがなかった場合には改めて鴨居村から浦賀役所へ願い出るよう仰せ渡しをします。なお、明治2年(1869)5月段階では未だ武士身分は解体しておらず、遺体の様子について「侍体之溺死骸」と役所へ報告するなど、外見や所持品を見れば当該人物の身分(あるいは出身階層)が一目瞭然であったことが窺えます(他にも、町人の身なりであれば「町人体溺死骸」とある)。

 さて、一度は浦賀役所の指示で埋葬された遺体ですが、発見から9日後の5月29日、遺体の引取を求める者が現れ、彼らによって遺体の身元が明らかとなります。引取人として現れたのは福井藩(越前松平家)藩士で御目付役の田嶋又三郎とその部下でしょうか林東という二人の武士でした。福井藩といえば、徳川家康の次男・結城秀康を藩祖とする「御家門」(徳川将軍家の親族)の大名であり、幕末には明君として名高い藩主松平慶永(春嶽)を輩出した名門です。なんと鴨居村に漂着した遺体は福井藩32万石の重臣(家老)で、酒井孫四郎(1839-1869/享年31歳[数え歳])という上級階層の武士であることが判明しました。酒井孫四郎は、藩命により欧米修学のため横浜を出発した直後、明治2年(1869)5月8日に観音崎沖で暗礁に触れた船が沈没し、命を落としたのでした。酒井孫四郎が海難事故に遭遇した観音崎沖(浦賀水道)は、潮流も早く、また三浦半島と房総半島の間が最も狭まる海域であったことなどから、海難事故が多発する危険海域とされています。酒井孫四郎の遺体が鴨居村に流れ着いた、明治2年(1869)5月頃には、鴨居村のほかにも上宮田村(現三浦市)で町人風の身なりをした男性2名、久里浜沖での沈没事故により金田村(現三浦市)へ外国人2名の遺体が海岸に漂着するなど、海沿いの村々へ遺体の漂着が相次いでいます。海からは漁業や海運を通じて多くの恵みがもたらされる一方で、海難事故により多くの人命が失われました。

 その後、福井藩家老酒井孫四郎と身元が判明した遺体は「引取方として同人(※酒井孫四郎)家来両人国元より参リ引取方万事取計居申候」と、自身の家来によって鴨居村から国元である福井へ引き取られたそうです。酒井孫四郎は、元治・慶応の長州征伐、戊辰戦争にも一軍の将として出征し、「強勇の名」を馳せた武士でしたが、その最期はあまりにも早く、また悲劇的なものでした。なお、酒井孫四郎は、その死から40年後の明治42年(1909)9月に、明治政府より生前の功績が認められ、「従四位」の贈位を受けています(田尻佐編『贈位諸賢伝 一』(国友社、1927年))。(文献史学担当 藤井)

 

現在の浦賀水道(房総半島から対岸に三浦半島を望む・筆者撮影)

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