辻井善彌先生を偲んで【学芸員自然と歴史のたより】
気がつけば4月に入り、春の訪れを感じる日々です。平和中央公園のリニューアルから1年が経ち、木や草花が根付いてきたように思います。そういえば、公園の対義語はなんでしょうか?少し調べてみましたが、明確なものはないようです。私が思うにそれは、野原ではないでしょうか?公園とは計画され手入れが行き届いている空間ですが、野原というのは人間が管理しない草地のイメージが浮かんできます。対義語ですから、そこに優劣はありません。しかし、野という言葉には、公や主流とは違う存在という意味があります。
ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、民俗学は野の学問とされています。それは、古文書等から歴史を紐解く文献史学に対して、文字に残らない人々の生活や伝承から歴史を紐解くことを打ち出し誕生した学問であるからです。しかしもう一つ理由があります。在野の研究者が担っている学問であるという自負からもそう呼んでいました。日本民俗学の父・柳田國男が中心となり各地の民間伝承を集めるときに、その担い手となった人々がいました。彼らの多くは、宗教家や学校教員の職に就いていました。その意味では純然たる野ではありませんが、アカデミックな大学教員ではありませんし、民俗学で生計を立てていたわけでもありません。新しい学問であった日本民俗学が大学教育に組み込まれるのは、柳田亡き後のことです。柳田の直弟子や同時代に共に活躍した在野の研究者が大学教員や地域の文化財行政の重鎮になり、在野性がなくなったかというとそうではありません。彼らが中心となり地方の民俗学会が設立され、他の職に就きながら民俗調査を実施する仲間を組織したのです。例えば島根県の石塚尊俊、山形県の戸川安章、新潟県の小林存などです。
もちろん神奈川県にも相模民俗学会があり、現在でも地方の民俗学会として活発に活動をしています。しかし、そこでの活動が民俗調査や研究の必須条件ではありません。地元の高校教員として働く傍ら、地道に三浦半島の民俗研究した方がいます。辻井善彌先生です。辻井先生は当館の研究員や横須賀市文化財審議委員も歴任されました。また、東京の三田にあった日本常民文化研究所の手伝いをしていた縁から日本民具学会の立ち上げにも参加し、相模民俗学会にも加入されていました。しかし、学会の中心人物として活躍したというよりは、地元である三浦半島の暮らしを住民目線で描いていくことに注力されていた印象があります。ただし、民俗学にとっての功績は、先に挙げた先人たちに匹敵するものであったと思います。その功績でもある「農漁民」の発想や文書(もんじょ)の利用については『民具マンスリー』第50巻4号のインタビューで紹介されており、「やっぱり現場に寄り添って考えるのが私には向いているのかな」と述べられています。
しかし、残念なことに2022年2月、辻井先生がお亡くなりになりました。生前、辻井先生が現場に寄り添って撮影したネガフィルムを寄贈していただいておりました。月に1度のペースで辻井先生から1枚1枚の写真について丁寧な説明をお聞きしていた最中の出来事で、整理作業もまだ道半ばです。整理作業の継続はもちろん、辻井先生の業績を後世に引き継ぐことを決意し、辻井善彌先生のご冥福をお祈りいたします。(民俗学担当:瀬川)
辻井先生の著書
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