安政江戸地震と横須賀【学芸員自然と歴史のたより】
安政2年(1855)10月2日夜半、江戸を中心とした地域に大きな被害をもたらした「安政江戸地震」が発生しました。今から170年前の出来事です。今回は、当館所蔵の古文書を通じて、江戸時代後期の大地震である「安政江戸地震」について紹介します。
まず、「安政江戸地震」の地震としての規模は、マグニチュード7.0程度と推定されています。この大地震によって、江戸を中心に少なくとも7000名以上が亡くなったとされ、その被害は横須賀・三浦半島を含む現在の神奈川県域にも及びました。
当館では、こうした「安政江戸地震」の江戸での被害状況を記した『安政見聞誌』(全3冊)という記録を所蔵しています。もともとは現横須賀市域の村の名主を務めた旧家の蔵書であったものです。この『安政見聞誌』という地震の記録は「後世の子どもたちに地震の被害とそれを乗り越えて平和に暮らせる現在の社会のありがたさを伝えること」を動機として、地震の翌年である安政3年(1856)に刊行されました。筆者は幕末から明治時代にかけての戯作者である仮名垣魯文(1829-1894)であったとされています。
被災する江戸の町(『安政見聞誌』)
『安政見聞誌』の記述の中には、江戸の住人である中村大作とその従者である十介による不思議な体験談が記録されています。あらすじは次の通りです。「地震から3日後の10月5日夜、十介は用事を済まして下総国(現・千葉県)から被災した江戸へ戻る途中、野道でうたた寝をしてしまいます。「ハッ」として目覚めると、灯りの影から若い女性が現れ、自分を「蜂須賀小大夫の娘」であると名乗り、手紙の入った巾着袋を十介に手渡して消えてしまいます。十介がこの不思議な出来事を主人の中村に話すと、中村は砲術修業のため浦賀(現・横須賀市)に滞在している小大夫を見つけ、若い女性から託された手紙を届けることになります。驚いた小大夫は中村と共に船に乗って急いで江戸に戻りますが、自宅に到着すると、小大夫の娘は倒壊した家の中ですでに「五体砕(くだけ)て」死亡しており、とても手紙を書ける状態ではなかった」という話です。この不思議な体験談を聞いた『安政見聞誌』の筆者は、娘が父親を思う気持ちに涙しながらこの体験談を同書に記録したといいます。なお、近年発生した「東日本大震災」(平成23年(2011)3月11日)に際しても、被災地での心霊体験が多く伝えられています。そうした事柄は、メディア報道や書籍の刊行、宗教学者等の研究論文を通じて一時話題となりました。こうした体験談には、昔も今も変わらない人間の心のあり方を考えるヒントがあるように思います。
さて、このように江戸を中心に大きな被害を出した「安政江戸地震」ですが、横須賀・三浦半島ではどのような被害があったのでしょうか。結論から先に述べると、残念ながら史料的な制約により詳細な被害状況は不明と言わざるを得ません。しかしながら、大田和村(現・横須賀市)の百姓浅葉仁三郎の日記に地震当日の記述とその後の伝聞が断片的に記されています。そこで、わずかな記述ではありますが、横須賀・三浦半島における「安政江戸地震」の被害状況と当時の様子を紹介したいと思います。
大田和村での被害(地震当日の記事)
まず地震が江戸を襲った同時刻の出来事として、大田和村の仁三郎家では土蔵の壁が破損し、仏壇にあった香炉と花立が残らず落下したとあります。その後も余震が続き、不安な夜を過ごしていたことが日記の記述から窺えます。さらに翌10月3日の記事には、異国船からの江戸湾防備のために設けられた上宮田陣屋(現・三浦市)が倒壊し、複数の死者と負傷者が出たらしいとの伝聞が記されています。なお、当時上宮田陣屋を拠点として江戸湾防備にあたっていたのは長州藩でした。続いて地震発生から5日後の10月7日の記事には、未だ夜間に複数回にもおよぶ余震が続く中で「江戸の大名屋敷にも火災による被害があり、新吉原にあった遊郭で多数の死者が出たらしい」と江戸での被害状況について伝聞を記しています。直接的な地震の揺れによる被害とともに、地震被害に関するさまざまな噂が飛び交うなど不安定な社会の様子が窺えます。(文献史学担当:藤井)
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